ホクロは日本人の証

クスッ、ほっこり、外国人あるある話

ホクロは日本人の証

ある新聞記者からの電話からはじまった話

ある日、実家の母のところに1本の電話がかかってきました。それは某有名新聞の記者さんから。アメリカ人の男性が、母の妹である叔母を探しているとのこと。ちょっと複雑な話になるのですが、その男性の父親は、私から見たら従兄にあたる方なのでした。

実は叔母がまだ十代の頃、アメリカ兵と恋に落ち、私の従兄が産まれたのです。アメリカ兵は叔母と結婚しようとしたのですが、まだ昭和20年代の頃の話で、戦争の傷跡も深く残っており、アメリカ政府が叔母のことを日本からのスパイかもしれないと疑い、結婚を許してはくれませんでした。

そして、まるで二人を引き裂くかのように、そのアメリカ兵は朝鮮戦争に3年間も行く事になってしまったのです。当時、二人の間にはボビーさんという男の子が生まれて3カ月。そのアメリカ兵はボビーさんを連れて近くの池の鯉を見に行ったと、叔母は母に何度も話していたそうです。

たった3ヵ月でしたが、親子3人で幸せな生活だったそうです。ですが、その後二人は戦争で離れ離れになり、そして叔母は結核で亡くなりました。私の従兄のボビーさんは、叔母の同意も無いままにアメリカに養子として引き取られてしまい、英語の分からない親戚中が大騒ぎになっていたようです。叔父がその一大事を手紙に書き、アメリカ兵に送ったのですが、日本語で書いたものだから全く理解できなかったそうです。

こういった一連の話を私が知ったのは高校生の頃でした。それは、タイプライターで書かれた1通の手紙が見つかった事がきっかけでした。その手紙から、私にはハーフの従兄がいると知りました。でも、母に聞いても「アメリカにいる」ということしか分からないようで、探しようがなかったのです。

アメリカ人男性が日本へ来ることに

そして、そんな手紙の記憶が薄れていく頃、その新聞記者から電話を頂いたのです。「会いたい」と言われても、母も実家の家族も全く英語が話せません。そこで私が片言の英語で間に入る事になりました。新聞記者さんから彼のメールアドレスを教わり、待ち合わせ時間や場所を決め、横浜まで迎えに行きました。

彼は敬虔なクリスチャンで、すごく感じのいい人でした。彼にとって父親であり、私の従兄でもあるボビーさんについても色々聞かせてくれました。

初めて分かった真実

そして、そこには言葉が分からなかった事から様々な勘違いがあった事を知る事となったのです。私は叔母がアメリカ兵に弄ばれて出産したのだと思っていましたし、ボビーさんは両親から捨てられて養子になったのだと思っていました。

ですが、ボビーさんの息子であるアメリカ人男性が来た事で、二人が心から愛し合っていた事や、アメリカ兵が必死になってボビーさんを探していた事を知りました。アメリカ兵は3年後に叔母のもとに帰って来ましたが、そのアパートには他の人が住んでいて、叔母が亡くなった事は分かったけれど、息子のボビーさんがどこに行ってしまったのか、日本人が説明しても何を言われているのかさっぱり理解できなかったのだそうです。どこにいるのか分からない息子を、広いアメリカの大地で探す事になったアメリカ兵は、体調を崩して動き回れなくなるまでずっと息子を探していたのだそうです。

私たちは、わざわざアメリカから会いに来てくれた男性に対し「どうして急に日本の家族を探し始めたのか」と尋ねると、ある事がきっかけで「自分の祖母が日本人だと知ったから」だと言っていました。それは、ある時腕に黒い点が出来たのを見つけて、スウェーデン人のお母さんに「これは何?」と聞いた時、お母さんは「それはホクロっていうのよ。あなたには日本人の血が流れているの」と説明したそうです。

その時初めて知りましたが、アメリカ人にはホクロが出来ないのだそうです。ホクロがあるという事で「I’m Japanese!」と嬉しそうでした。そして、そのルーツを探り、私たちに会いに来たそうです。今はアメリカで増えた家族と交流しながら、長い空白の時間を埋めています。