テロへの恐怖心

クスッ、ほっこり、外国人あるある話

テロへの恐怖心

湾岸戦争でのできごと

私は現在61歳で個人事業を営んでいます。このエピソードを体験したのは1991年湾岸戦争の最中で、当時私は37歳の会社員でした。社内の選抜メンバーでヨーロッパ出張が命じられ、最初の訪問地ウィーンでの出来事です。その出張メンバーの中にはアメリカ人のマッチョマンも入っており、ある夜、皆でオペラを見たあと、自然な流れで腕相撲大会となりました。

私は、翌朝から一人でミラノに行かなければならなかったため、腕相撲大会には参加せずに部屋で準備をしていると、「大変だ!マッチョマンが骨折した!」と同僚が駆け込んで来ました。私の先輩とマッチョマンが腕相撲をしていたところ、ボキッと嫌な音がしたそうです。

出張中にアメリカ人の同僚が骨折

その後、マッチョマンは大急ぎで病院に向かったそうで、同行した先輩の話によると、ウィーンは石畳の道が多く、マッチョマンは道中でそうとう痛がったのだそうでした。そういえば、マッチョマンの昼飯はいつもハンガーガーやパスタばかりで、カルシウムなどの栄養が不足していて骨が弱かったのかもしれません。ですが病院では、「一体誰が、こんな筋肉モリモリの人を腕相撲で骨折させたのか」と驚かれ、先輩はその病院にてジャパニーズ空手マンと呼ばれたそうです。

骨折したマッチョマンは入院し、空手マンと呼ばれた先輩はウィーンの病院で付き添いです。私は当初の予定通り翌朝ミラノに移動し、そこで仕事をしていると、その夜ついに湾岸戦争がはじまりました。それ以降、ミラノ中央駅には、武装した兵士が列車の安全を確保するため目を光らせていました。

その後は、再びマッチョマンたちとミュンヘンで会うスケジュールになっていました。そのとき、入院中の2人以外はパリにいました。テロの危険も相当高かったため、移動手段も慎重に考えなくてはなりません。本社にも連絡を取り協議を重ねた結果、パリにいた同僚たちは、テロの確率が高い飛行機でなくバスをチャーターしました。

私は、ミラノ-ミュンヘン間の飛行機がプロペラ機でプラスチック爆弾のリスクがないということを確認したうえで、飛行機でミュンヘンに向かいました。ミラノからアルプスの山々を抜けてミュンヘンに到着。プロペラ機でしたので、そのフライトはまるで007のような気分でした。

そしてようやく、骨折治療を済ませたマッチョマンと再会しました。とても元気そうですが、残念なことに彼はせっかくのビールを飲めない状況でした。また、移動の際には、常に自分が目立たないように皆の後ろから体を小さくしてついてきます。

テロの標的となることにおびえるアメリカ人の同僚

アメリカ人はテロリストに必ず狙われると言われており、本当におびえながらの出張でした。しかし大きな体で変にコソコソすると余計に目立つような気がして、内心ではとても心配していました。私たち日本人には想像がつかないことですが、テロリストの恐怖におびえる人の様子を初めて間近で見て、改めて恐ろしい事態であることを実感しました。

移動の最中、いくつもの金属探知機が入っているゲートをくぐりますが、あいにくマッチョマンの左肩には金属プレートが入っており、ゲート通過のたびにピンポンと大きな音がします。そのためマッチョマンはレントゲン写真を準備しており、左肩に入った金属プレートの存在を説明し、私たちも嘘ではないと証言しました。

その際にも、マッチョマンはテロリストに見つからないよう、常に周りを伺っています。出張日程が終わり、無事に成田空港に到着した時には、マッチョマンは心から安堵の表情をしていました。

無事に日本へ帰国

日本にいる家族や送り出した会社の上司・同僚などは、湾岸戦争のさなかのヨーローッパ出張から無事帰国したことを大変喜びました。実際にいろいろと危険を肌で感じる体験はありましたので、戦争の怖さを実感いたしました。

しかし、出張メンバー全員が一番気を使ったのは、マッチョマンの骨折事件とその心配並びに通過のたびにピンポンと鳴る金属探知機への説明でした。日本人にはあまりテロリストの恐怖の実感がなく、マッチョマンの表情にはとても驚かせられました。その後、9.11事件がアメリカで起こり、テロリストが実際に自爆テロを行う事件が多発するようになりました。このようなことは今後もなかなか無くならないのではないかと残念に思う今日この頃です。

ちなみに、マッチョマンはこの辛い経験の後、食生活を改めて、カルシウムをしっかりと取るように心がけていました。社員食堂でのメニューは魚類を食べて、牛乳もしっかり取っていました。数年後、その企業を退職してアメリカに帰国しましたので、今ごろ彼はどうしているのかと、この記事を書きながら思いを馳せています。